FORDEAR
3.11の震災から二ヶ月以上の時間が過ぎました。
復興の兆しを見せている地域、未だ復興の目途が立っていない地域、様々です。
どの地域でもはっきり言えるのことは、
避難所、個人避難宅で避難している方達の精神的なストレスはピークを達しています。
色んな場所で喧嘩が起きたり、揉め事が起きたりもしています。
被災地の復興に目途が立たないことで苛立つボランティアの声も少なくない。
それでも僕らは前に進まなければならない。
民間の僕たちがそれぞれに出来ることを探し共に前に進んでいかなければ
人手の足らない被災地の現状は回復しない。
「決して風化させないようそれぞれの出来る範囲で何かをやろう」
そんな想いでSHOW YOUR HEARTのメンバーも共に動いています。
これまでに、被災地に足を運んだSYHの
メンバーレポートをいくつかをピックアップしました。
全ての活動をまとめるのは膨大な時間が掛かるので
ピックアップした幾つかに目を通してみて下さい。
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SHOW YOUR HEART支援部隊
いわき市・宮城避難所レポート
小林ちさ
SYH支援部隊は今回4月4日
福島県いわき市の「中央台南小学校」「平工業高校」の2ヶ所を訪ねました。
SHOW YOUR HEARTのメンバーの一人でもある”たかの友梨”さんをはじめ
総勢20名のエステボランティア隊が避難所の女性の皆さん約70名に
フェイシャルトリートメントのサービスを行いました。

フェイシャルトリートメントサービスの様子

エステボランティア隊の皆さん
また、ウエットタオル、タオル、
化粧品、ソックスなどの支援物資をお渡ししました。

SHOW YOUR HEART支援部隊

たかの友梨さんと。。
4月14日から16日の3日間で
津波被害の大きかった宮城県へ向かいました。
仙台市、気仙沼市、南三陸町、石巻市の9ヶ所の避難所に、
ドライシャンプー5,000本、
基礎化粧品セット2,000個、

支援物資のドライシャンプー

支援物資の基礎化粧品セット
タオルや子供用の衣類、手袋やソックス8,000枚、
ウエットタオル10,000枚、

支援物資の手袋

支援物資の手袋
子供用おもちゃなど、
女性や子供たちに喜んでいただけそうな物資を運びました。

支援物資の本

支援物資の数々
仙台市内の避難所
「高砂市民会館」「六郷中学校」
「JA仙台」の3ヶ所を回り、
支援部隊は気仙沼市へ。

気仙沼市の状況①
「気仙沼中学校」に避難している気仙沼で
網元をやっている知人が家も会社も失ってしまい、
「支援物資を運ぶ車が欲しい」と言われていたため、
中古の4駆ワゴン車をガソリン付きで提供してきました。

気仙沼市の状況②
気仙沼の漁業関係者はけっして行政頼りやボランティア頼りではなく、
自分たちで立ち直り一日でも早く漁業を復興させたいという
熱い想いがみなぎっていました。
気仙沼市の「気仙沼中学校」と隣接する「市民会館」は、
合わせて1,000人規模の大型避難所です。
支援物資のアナウンスに、あっという間に長蛇の列。

気仙沼市の市民会館にて①
子供用Tシャツ、おもちゃ、
スイスローザンヌ「Blondel」のチョコレートの列には
子供たちがあふれかえります。
(段ボール箱11箱2,200個のチョコレートは
オープンのための営業用に用意されていたそうですが、
被災された皆さんにお配りできたほうがうれしいと
支援物資として提供していただきました)

気仙沼市の市民会館にて②
自分のサイズを探し、
ミッキーやキティちゃんのキャラクターTシャツに
ほんのしばし子供たちに笑顔がこぼれます。

気仙沼市の市民会館にて③
女性に大人気だったのは、トートバッグ。
「家は津波で全壊してしまいどこに流されてしまったのやら探せない。
この間から近くのお風呂に行けるようになったので、このトートは便利。
ここにコスメとタオルを入れる!私の宝物だわ」
と言ってくださる40代女性。

コスメセットを受け取る皆さん①
何度も並びなおされる70代のおじいさんは、
「うちの奥さん、娘、孫娘の分も化粧品ください。隣の奥さんの分も」
とパワーがあります。

コスメセットを受け取る皆さん②
1時間30分以上も列が続きもう終了かと思う頃、
隣の避難所から情報を聞いた近くの避難者や
気仙沼中学校の先生たちも
「あっー!間に合った」
と並んでくださいました。
とても喜んでいただいて、こちらもうれしくなりました。

コスメセット受け取る皆さん③
次に訪れた南三陸町は、
大震災が発生してから2週間あまり閉ざされた町でした。

南三陸町の様子①
気仙沼市から南三陸町に向かう道は海岸沿いが通行禁止のため、
山を2つ越しまるでジェットコースターのようにくねくね曲がりながら
急斜面を登り下りすること2時間半の山道。
南三陸町に到着すると
海に向かって瓦礫の平原が続きます。
瓦礫の山はほんの少し前まで
人々が生活していた大切な家であり、
会社であり、大事な大事な家族の歴史を刻んだ思い出。
そして、大切な人の命です。

南三陸町の様子②

南三陸町の様子③
今回の大津波は一瞬にして
人々の暮らしすべてを呑み込んでしまった。

南三陸町の様子④

南三陸町の様子⑤
そこで自衛隊の人々が
献身的に瓦礫を片付け遺体を捜査していました。
老婆や子供たちが手を合わせて
自衛隊の人々に深く深く頭を下げる光景に涙が止まりませんでした。
200名の避難者がいらっしゃる「志津川小学校」と
1,200名あまりも避難されている「志津川ベイサイドアリーナ」を訪問しました。
まだ水も出ず、一日二食という辛い状況が続く避難所です。

志津川ベイサイドアリーナでの様子①
いろんな支援物資が届いている中で、
コスメははじめてということもあり
どちらも長蛇の列ができました。
「家も失って裸で出てきた。
ミルキーローションはあの日以来一度も塗っていないからうれしい!
肌が乾燥してボロボロだった」
という30代のお母さん。

志津川ベイサイドアリーナでの様子②
「ありがたい、ありがたい。
死にそうになったけど、化粧品なんていただいたら、
死ぬまで女でいたいと元気になる」
という80代のおばあさん。
ボランティア活動する看護士さんたちも並びます。
「ドライシャンプーは
患者さんと癒しのコミュニケーションに使わせていただきます」
とドライシャンプーとタオルを大切そうに
持っていかれました。
最後に訪れた石巻市は、
この震災で7割の児童が亡くなったという大川小学校がありました。

大川小学校

石巻市の状況①

石巻市の状況②
大川小学校の残された生徒が
4月21日から通うことになる「飯野川第一小学校」と
隣の「飯野川中学校」を訪れました。
小学校では、
教頭先生が21日から始まる新学期の準備に追われていらっしゃいました。
「家を失って仙台市内に転出を希望する児童が相次ぎ、
生徒数の半分以上から転出希望が出ています。
残った子供たちは淋しがるでしょう。
ランドセルや学用品がいろいろな方から届けられてありがたいことです」
とおっしゃっていました。
今回訪ねた10ヶ所の避難所に、
私たちは童話やマンガなどをセットした「なかよし本箱」を設置してきました。

「なかよし本箱」
そして読みたい本の希望を書いて送れるハガキを
10枚ずつつけたのですが翌日には20枚戻ってきました。
「ワンピース(全巻)」「NARUTO(全巻)」
「メジャー(全巻)」「デカワンコ(全巻)」
「好きです 鈴木くん!!(全巻)」「オバケのQ太郎」などなど
読みたいマンガがたくさん書いてありました。
(1週間後に届けました)
次に訪れた「ビッグバン」は500人以上の避難者がいらっしゃいました。

ビックバンにて①
ここでも、あっという間に長い列が出来、
基礎化粧品やウエットタオル、
タオルやドライシャンプー、
手袋などを皆さんに手渡すことができました。

ビックバンにて②
「乳液をつけるのは1ヶ月ぶり。
ちょっと幸せな気持ちになります。うれしい!」
と若いお母さん。

ビックバンにて③
「ママに化粧品をプレゼントする!」
という子供たちもいました。
“ドライシャンプー”と“乳液”をエプロンで包んだり、
ダンボールに入れて大切そうに持ち帰っていただき胸がいっぱいになりました。
予想以上の人数に、
途中で持ち込んだ化粧品がなくなりましたが、
「周りの皆さんと譲りあって使いますから。
遠くまで来てくださって本当にありがとうございます」
とおっしゃってくださいました。

「なかよし本棚」
子供たちは避難所ではまったくテレビを観ていません。
外で遊ぶこともせずどんよりとした体育館でゴロゴロ。
「ここはつまらない!学校に行って遊びたい」
「友達がいない」
体育館の中は薄暗いし、
お年寄りも寝ていらっしゃるので、騒げずにいます。

なかよし本棚に見入る子供達①

なかよし本棚に見入る子供達②
石巻市では、
家族や同級生を津波で亡くした子供たちも多いので
「子供たちに取材しないでください。被災のことを話さないで!」
という注意書きもありました。
子供たちは、
笑顔の裏で計り知れない不安と悲しみを抱えているのだと思います。
彼らは生きている限り、このことを忘れることはできないでしょう。

避難所の状況①
被災地の皆さんは長引く避難所生活の中で、
いつまで頑張れば先が見えるのかと不安でいっぱいだと思います。

避難所の状況②
被災地までの道は、
気仙沼市も女川町も石巻市も南三陸町も、
ほんの1カ月で修復されていました。
海辺の陥没した道も自衛隊の人々が仮設の道を作り、
被災地へと続く生命線ができていました。

自衛隊の方々①
地震で歪み、津波で欠損した道を
毎日徹夜しながら短期間で修復したのでしょう。
日本人は素晴らしい、力強いと感動しました。
この道は被災者と私たちをつなぐ絆だと思います。

自衛隊の方々②
復興には10年以上かかると思います。
現地に行く前には、
「力仕事もできない、医師や看護士、栄養士の資格もない、
歌って喜んでいただくこともできない。
何もできない自分達が行ってもご迷惑ではないか」
と思っていました。
しかし、
実際に被災地に行ってみて仕事がいっぱいあることに気づきます。
これから行かれる方は、
力自慢は泥掻き、力の弱い方は避難所の掃除や皆さんの毛布を干す。
またお年寄り話し相手などなど、さまざまなサポートが見つかるはずです。

避難所の状況③
私たちは被災者のこのような現実に目を背けず、
このことを風化させず、
何か少しでもできることがあるなら行動に移し
支援を長く続けていくことが大切だと思います。

なかよし本棚と。。
《被災地の現状・声 ポイント》
1.ボランティアの人員はまだ足りません。
ゴールデンウィーク明けからは特に半壊の家からの泥出し、
掃除、海水に浸かった畳みを外に出す肉体労働の人員が足りないそうです。

物資支援所①
2.ボランティアは、食べ物、宿泊所、
トイレなど自己完結していくのが鉄則と聞き、
私たちも簡易トイレを持参しましたが、
途中のサービスエリアでトイレも使えるし、
ガソリン補給も今は可能です。宿泊先は探せばあります。
私たちは、仙台市内のビジネスホテルに雑魚寝。車で東京を朝5時に出発。
意外に早く5時間で仙台に到着しました。
現在は飛行機も新幹線も通りましたが、
車が確実で一番いいです。
支援物資は、予めヤマト運輸の仙台市内の営業所留めにして東京から送りました。
1~2日で届きました。ヤマトの宅急便なら必ず届きます。
ヤマト運輸の営業所や宿泊先のホテルで、
予め連絡をしておけば預ってくれます。
当日車で持ち込んだものと合わせ、
支援物資の量が多かったので、仙台でレンタカーを借りました。

物資支援所②

物資支援所③
3.気仙沼、石巻、南三陸町、女川町などの道路は、地震や津波の影響で、
歪みはありますが、走れます。
通行禁止箇所も多少はあり遠回りになりますが、
必ず目的の被災地には行けます。
クロネコヤマトはどんな避難所にも行っていました。
4.個人宅、散らばる小さな避難所の現状はそれぞれ違いますが、
今回訪れた避難所では物資が山積みになっていました。
大きな避難所には物資が十分あります。
仕分ける人がいないのと、もう足りているということもあり
開けもせず場所を塞いでいる現状がありました。
これからは何が本当に必要な物資なのかを精査する必要があります。
5. 自衛隊などの炊き出しは長蛇の列。
一番うれしそう。南三陸町はまだ一日二食でした。
ただ、食器がない。
発泡スチロールでできたお椀を
濡れタオルで拭きながら(水が出るところは洗って)使っています。
プラスチックのお椀、皿、フォークがあればいいのにと思います。

物資支援所④
6.大きな避難所では炊き出しの配給を各自持ち帰り、
各々毛布を畳んだ床にペタリと座り食べています。
食事をするコーナーを避難所につくり、
皆で話しをしながら食べることができたらいいのにと思いました。
そのほうが清潔だし、老人たちが孤立することもない。
配膳や後片付けも楽になると思います。
7.まだ学校が始まっていない地域もあり(4月21日から始まりました)
子供たちは異口同音に「退屈している」と言っていました。。
また、大半の支援物資は避難所で管理されているので、
自分たちのものではないという意識。
直接配布されたものは、
自分たちのものになるのでうれしいのだと思います。
8.主要な支援物資は足りています。
衣類は趣味のいいもの、
子供用のTシャツやソックスなら
ミッキーやキティなどのキャラクターものが喜ばれます。
お風呂に持って行けるトートバックなどは女性に喜ばれました。
また、女性からの要望で、
これからの季節UVカットの日焼け止めクリームが欲しいと
おっしゃっていました。
以上、レポートを終わります。
SHOW YOUR HEART支援部隊
小林ちさ
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SHOW YOUR HEART支援部隊は
その都度、名乗りを上げた仲間が各自でチームを組み
被災地に入り活動をしています。

物資支援所にて。。
地道な活動でも、
積み重なれば大きくなると信じてみんな動いています。
こんな中、日立市長からお礼状を頂きました。
—————————————————–
謹啓
陽春の候、皆様にはますます御清栄のこととお喜び申し上げます。
このたびの東日本大震災に際しましては、心温まる御支援を賜り、
誠にありがとうございました。
皆様からお寄せいただいた御支援は、被災された方々の大きな支
えとなり、生きる勇気を与えてくださいました。
本市においては、幸いにも震災により亡くなられた方はおりませ
んでしたが、一時は全てのライフラインが寸断され、また、多くの
家屋が損壊、床上浸水し、学校や道路等の公共施設には甚大な損害
が生じました。
現在日立市では、一日も早く市民生活が安定し、生活再建が推進
されるよう、市民、議会、関係団体等と共に力を合わせ、復校に向
け全力で取り組んでいるところであります。
このたびお寄せいただいた御厚情に略儀ながら書中をもってお礼
申し上げますとともに、皆様のますますの御発展と御健勝をお祈り
申し上げます。
謹白
平成23年4月
日立市長 樫村千秋
–
—————————————————–
多くの仲間がそれぞれに名乗りを上げて
地道な活動を今も尚、続けています。
そんな彼らの行動に心から感謝しいます。
そして一日でも早く復興の兆しが見えることを願っています。
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SHOW YOUR HEART新潟支援部隊
山崎真二
南三陸レポート
4月初旬から
地震と津波で大被害を受けた宮城県の南三陸町に
ずっと通っています。

南三陸町にて

南三陸町の状況①

南三陸町の状況②

南三陸町の状況③
4月23日、
南三陸町の避難所から要望を受け、
GACKTさんが調達してくれたウェットティッシュ300パックと、
手配してくれた老眼鏡500本を
南三陸町最大の避難所で役場機能も兼ねている「ベイサイドアリーナ」に届けました。

避難所のベイサイドアリーナ①

避難所のベイサイドアリーナ②
その際、
避難所の一つ入谷公民館の阿部忠義館長にお願いし、
町内の各避難所の要望を取りまとめていただき、
29日に再度訪問して老眼鏡500本、
ウェットティッシュ200パック、
そして避難所生活を送る女性の皆さんから要望があった
コンパクトミラー300個を持参し、
無事に要望のあった避難所にすべて届けることができました。

入谷公民館にて
物資を届けに行くと、
避難所の皆さんに本当に感謝していただけました。
老眼鏡はGACKTさんが知人のメガネメーカーから
寄贈の申し出を受けられ、
私が南三陸町のボランティアセンターで
「老眼鏡をプレゼントしていただける話があるが、必要ですか?」
とお尋ねしたところ、
「ぜひ、お願いします」
と要望されたもので、
お年寄りの皆さんに非常に喜んでいただけました。
また、コンパクトミラーは現地から
「もし、手に入るなら欲しい。
女性の皆さんが化粧をしたくても
トイレの洗面所の鏡では大勢が使うには難しい。
コンパクトミラーがあれば・・・」
と要望されたものです。
この事をGACKTさんに伝えたところ、
すぐに手配してそろえてくれたもので、
お届けすると女性の皆さんからとても感謝されました。
震災発生から50日が過ぎました。

南三陸町の現状①

南三陸町の現状②
ここまで時間が経過すると、
被災地にはかなりの支援物資が届いています。
私の見聞きしたところ、
南三陸町に限って言えば最低限、
生活に必要な衣類や寝具、
食事や水は届いていて、
衣類は全国から豊富に届き、地元の年配の人など
「震災前に着ていたものより派手でいいもの着ているかも」
と話していました。
毛布も充足していて断っている状態でした。
しかし、
今回のプロジェクトで届けた老眼鏡やコンパクトミラーのように、
生活に無くてはならない物ではないが、
本来の生活では使っていたもので、
「手に入るなら欲しい」という品物までは
まだ手が回っていない状況です。

南三陸町の現状③

南三陸町の現状④
それでも、
被災者の皆さんの心のなかには
「そんな物まで要望したら悪い」
という遠慮が見え隠れしています。
欲しいものを正直に「欲しい」とはなかなか言えず、
「贅沢は言ってはいけない」といった心理が働き、
無意識のうちに遠慮されているようです。

公立志津川病院

南三陸町の現状⑤
今後はさらに、
被災者の皆さんの要望をしっかりと聞き取り、
そのなかで自分たちが何を援助できるか考えて活動する必要性を実感しています。
以上、レポートを終わります。

南三陸町の現状⑥
SHOW YOUR HEART新潟支援部隊
山崎
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彼らとの会話でこんなやりとりがあったことを鮮明に覚えています。
僕が沖縄にドラマのロケで滞在中、
「みんな、本当にありがとう。
大変だと思うけれど、顔張って欲しい。
一緒に行けなくて申し訳ない」
そんな言葉を彼らに伝えると、
「GACKTさん、
オレはこういうことをやってるオレ自身に酔ってるだけ。
申し訳ないとも思わないで下さい。
GACKTさんの分までしっかりやりますから。
こういうことをやってる自分が意外と好きなんですよ・・・」
と、何度も被災地に足を運んではボランティア活動をしてくれる仲間。
もちろん、酔ってるだけで出来ることではない。
これだけボロボロになりながらも
何か出来るんじゃないかと、活動してくれる。
こんな仲間がたくさんいます。
5月に入ってからも、
子供達の学校給食は未だにしっかりと復旧しない状況が続いています。
被災地の学校の子供達にリクエストをとったところ
おやつがほしいとの声が非常に多かったことから
川崎麻世さんを初め、多くの方の支援の元、
おやつになる物を小学校、避難所に届けることにしました。
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SHOW YOUR HEART物資運搬班
田中涼
5月12日(木)
GACKTさん、川崎麻世さんからの要請を受け
南三陸町入谷公民館へサータアンダギー1500個、
大量のラスク、バームクーヘン、パワフルボーロなどのお菓子を搬送しました。

物資の数々…
東北自動車を通るルートで現地に向かったのですが
福島県に入ると今現在も高速道路には
亀裂や波をうっている場所がところどころにありました。
高速道路を降り、南三陸町に近づくにつれ地盤沈下している場所が増えていきます。

地盤沈下している場所

支柱だけが残った家屋
午後12時半頃
搬送先の公民館に到着し物資を降ろした後、
公民館の館長である阿部さんに話を伺いました。
多くの方々の支援により食料などの物資は
十分な量がある状況となってきているようです。
避難者も減り避難場所の集約のため、
公民館から学校などへ場所を移し始めているそうで
その一方、物資もメジャーな地域には届いているが、
マイナーな地域には十分な物資が届いていなかったり、
後回しになっている問題が起きています。

物資搬送先倉庫周辺①

物資搬送先倉庫周辺②
物資搬送後、現地を視察しました。
公民館から海岸沿いへ少し進むと景色は一変し
多くの瓦礫の山が広がっています。
海岸沿いから数キロ離れた場所に大きな船があり、
3階建ての建物の上に車があるといった信じられない光景が
震災から2ヶ月経った今でも残っています。

沿岸部から数キロ離れた場所にある船

大地震が残した現実①

大地震が残した現実②
聞いたところによると、
この瓦礫は震災後から6割除去できた状態。
当時は川にも水が全く見えない程の瓦礫が浮いており、
街は道路がどこにあるかわからない状況だったそうです。
南三陸町の現状
この街を通っていた線路は跡形もなく流され
初めてこの土地にきた我々には
どこに線路が通っていたのか想像がつかない程です。

線路が通っていたトンネル

変わり果てた線路

八幡川
街の風景が一望できる志津川中学校に行ってきました。

志津川中学校正門前から見た街の様子

ガードレールに書かれたメッセージ
中学校から見える景色は
津波の威力がどれほどであったか瞬時に伝わってくるものでした。
残っている建物は数えられる程度。
残っていても建物内にも多くの瓦礫が入っており使用できる状況ではありません。

中には瓦礫しか残ってない状態の建物

避難を呼びかけた防災対策庁舎

原形をとどめていないドラッグストア
この街は1960年のチリ地震の際に津波の被害を受けている地域のため
教訓として防波堤、防潮堤、水門を設置していました。
でも、今回の津波は想定を遙かに越える波が来たため
全く防ぐことができませんでした。
また、住民の津波の危機感も低下していたそうです。
理由として、住民は防波堤などがあることを知っていたため、
津波が来ても大丈夫だという認識だったそうです。
そのため、避難せず家に残ったまま津波に流されるケースが多々あり、
家の2階へ避難すれば助かったかもしれないが、
一階の居間で過ごしたままの人もいたと聞きました。
地震直後、
街に流れた情報は3m~6mの津波が来ると伝えられたそうですが
実際に来た波の高さは20m以上のものでした。

南三陸町の現状①
今回の震災は、
自分も幼少の頃に経験した阪神・淡路大震災のような
地震による家屋倒壊や火災の被害ではありません。
津波によって建物が流され、
元々あった場所に自分の住んでいた家がなくなっている。
家の中の物も流され
どこにあるのかさえ検討もつかない状況です。

南三陸町の現状②

沿岸部から3キロほど離れた場所にて。。
震災から2ヶ月経った今、
南三陸町の避難所では物資は必要な量に達してきています。
次のステップとして、
ライフラインの復旧、
漁業などの産業の復興、
土地の整備に重点が置かれてきていると伺いました。
次のステップに進むのに一番必要なものは資金です。
資金を集めるために、
4月から月に一回「福興市」というイベントを行い、
地域を盛り上げ、住民に対しても楽しむ場を作っているそうです。

福興市のポスター
このイベントは、
地域住民だけのものでなく
他の地域からの住民がきてイベントに参加し
共に楽しみながら地域の活性化を促す目的です。
地元商店街を中心に全国の商店街も参加。
そして、被災を受けた地域住民には現金がない方が多いため、
地域通貨「タコ券」というものを発行し、
ものを購入できるシステムを作っています。
他の地域の方は現金で「タコ券」を購入するようになっています。
このイベントで多くの住民がおっしゃっていたことは、
「久しぶりに買い物をする楽しみを味わえた。
ただ、物を貰うのではなく、
自分から選んで物を買うということを味わえた・・・」
と喜んでいたそうです。
こういったイベントが、
住民にとって次のステップに踏み出す力に変わっていくのではと感じました。
このイベントは来年の3月まで行うことが決まっているそうです。
支援も、こういったイベントも一回だけではなく、
続けていくことが何よりも大切ではないのでしょうか?
今後とも持続可能な支援を考え、
行動に移していければと考えています。
以上、レポート終わります。
SHOW YOUR HEART物資運搬班
田中涼
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そして、最後に川崎麻世さんが被災地を訪れたときの現地レポートを載せて
このブログを締めたいと思います。
どうしても現地に行って何かやりたいという彼の想いは本当に熱いものでした。
彼が被災地から帰ってきて、僕にすぐメールを送ってきました。
「GACKT、俺たちはまだまだ、やらなきゃいけないことが一杯ある!!!」
僕も同じようにそう感じています。
そんな彼のレポートを読んで下さい。
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SHOW YOUR HEART
川崎麻世
2011・3・11
大震災が東日本を襲って多くの被害者を出した。
そして我々は、今できる事は何かと活動を始めた。
義援金・救援物資 他
しかし俺は被災地にいる方々に逢いたい気持ちが止まなかった。
こうして日本の皆さんに育てられながら芸能界で活動している。
恩返しをしなくては。
やっとまとまった時間が取れ、5月13日から4日間で東北へ向かった。
初日、東京チームは山形に入り、山形チームと合流した。
ブログで募った沢山の救援物資をトラックに積み込み、炊き出しの仕度、
ミーティングをして翌朝に最初の被災地、宮城県南三陸町に入った。

大震災が残した現状 Ⅰ
山道を下ると目の前に津波で流された街が広がった。
瓦礫の他には何もないと言っても過言ではない。

大震災が残した現状Ⅱ

大震災が残した現状Ⅲ
そして避難所の南三陸町歌津中学校に入り、賛同してくれたボランティア団体と仙台からの仲間と合流した。
先ずは体育館に避難している方々に逢いに行くと、皆さんの方から集まって来てくれた。
想像していたよりも笑顔で前向きな方達が多かった。

南三陸町歌津中学校 体育館
そして、炊き出しは焼きそば、唐揚げ、野菜スティック。
お楽しみコーナーではお菓子の掴み取り・お面・お楽しみカード・マッサージコーナー。
沢山の方々が喜んでくれた。
しかし南三陸の街は果てしなく壊滅しているのに何故こんなに笑顔でいられるのだろうか?
「だって起きてしまった事は仕方ない、前向きに考えなきゃね」
と、笑顔で話してくれた。
今まで海で稼がせてもらった分、全部海が持ってっちゃった。
だけどまた海で取り戻すしかないと言う話を聞いたことがある。
一日目にしてそんな東北の強さを思い知らされた。
ガソリンスタンドの前に一枚の看板があった。津波のバカ!でも頑張っぺと書いてあった。
被災地2日目は宮城県気仙沼。
港に向かう道を右折した瞬間にぐちゃぐちゃになった街が姿を現した。

大震災が残した現状Ⅳ
南三陸町とは違い、街の中心部は多くの建物が崩壊しながらも、その形だけは残していた。
車を降りて街を歩いた。

大震災が残した現状Ⅴ
風が吹くと今にも崩れ落ちそうな形だけとどめた建物。
ぶら下がったトタンやドアがバタバタと音をたて粉塵が舞っていた。
テレビで見た高台があった。
高台からのカメラの映像で津波が襲い、車や建物や船が流されていた映像を見た街だ。
海が燃え、船が燃えていた街。
更に海岸線を行くと大型の船が陸に打ち上げられていた。

陸に打ち上げられた船Ⅰ

陸に打ち上げられた船Ⅱ

陸に打ち上げられた船Ⅲ
ガソリンスタンドの大きな時計は悲劇が起きた時間で止まっていた。

悲劇が起きた時間を示す時計
その先には水浸しになり、まだ手付かずの区域が果てしなく続いていた。
街は悪臭に包まれ、流された車が建物の上に乗っていたり、
着物が入ったタンスやぬいぐるみや履き物が寂しく主人を待っていた。
しかし、この広大な瓦礫の地に自衛隊はよく道を作ってくれたものだ。

自衛隊の皆さん
避難所にはボランティアの方々はいるが、
瓦礫の整理や撤去をしているボランティアには一度も会わなかった。
このままでいいのだろうか?
国からの指示を待っているのだろうか?
この瓦礫の整理や撤去は民間のボランティアの協力なくしてはかなり長期戦になると思った。

大震災が残した現状Ⅵ
避難所の気仙沼市民会館に行った。
ここで大阪チームと合流、炊き出し・お楽しみコーナーには約1000人が集まった。
皆さんがいる大広間を訪問した。
こんにちはと声をかけると皆さんも大きな声でこんにちはと返してくれる。

気仙沼市民会館にて Ⅰ
初老の夫婦が笑顔から一転して震災が起きた時の事を語り始めた。
「地震の後に停電しサイレンが鳴り響き、津波警報の中、夫婦は一目散に高台に上がった。
その直後、登りきった階段が流された。あと一秒遅れていたら…。
助けを叫ぶ人に足を止め、引き返した方が一緒に流されました。
流されて行く多くの人達と流されて行く我が家…」
やがて女性は涙で話せなくなった。
俺は彼女を抱きしめた。
泣いたらだめだね、泣いたら…と自分に言い聞かせていた。
御主人が口を開いた。

気仙沼市民会館にて Ⅱ
「我々はまだ幸せだ、この中には家族や親戚を亡くした方々が沢山いる。
今は命も助かり、こうして屋根の下で避難できている。
寒い中、数日間、屋根の上で救助を待ってた人もいる。あの時はほんとに寒かった」と。
そして、こんな思いをしながらも皆さんは原発問題を抱える福島の人達を心配していた。
その後も避難所を回り、一人一人の歴史や思い出にあってはならない悲惨な傷跡が残っている事に胸が痛んだ。

大震災が残した現状Ⅶ
最終日、我々は地震・津波・原発・風評被害が起きた福島県へと移動した。
一見何事もなかったかの様にみえる郡山市街、
避難所になっている近代的な大型の建物、ビックパレットに向かった。
震災、原発水素爆発後に富岡町と河内村から約2500人が避難し足の踏み場もなく通路も通れない状態で、
原発を恐れてしばらくは物資も届かなかったらしい。

大震災が残した現状Ⅷ
現在は約1100人が避難している。
皆さんが寝泊まりしているホールへ行った。
ここでは海岸線の避難所とは違う空気があった。
多くの人達が横になり、頭を抱えている人や口を開かない人も沢山いた。
当たり前だ、諦めがつくものか。家があるのに帰れない原発問題。
いまだに見えない津波の中で助けを求めている様に感じた。勿論元気にふるまっている人や子供達も沢山いる。

子供達と…
「麻世さんよく来てくれたね、
ここにはあまり芸能人も来てくれないんだよね、
やっぱり原発かな・・・」と。
こんにちはと声をかけて歩くと、少しずつ笑顔が見えてきた。
準備から約5時間。炊き出しをしたり、綿菓子、マッサージコーナーを設けた。
温かいおうどんを食べる事はない、ありがとうって感謝してくれた。
富岡町の副町長も深刻な眼差しで語っていた。

大震災が残した現状Ⅸ

大震災が残した現状Ⅹ
将来、福島県の人口は激減するでしょう。その人達の雇用問題が懸念されます。
残るのは土地に根付いたお年寄り。
中には危険地域に戻り、農家で自給自足で生きて行く人達も少なくないと言っていた。
避難所を離れると自己責任になってしまうらしい。
しかしプライバシーや感染病を塞ぐ為に仮設住宅やアパートに移っていただき、避難所の人数を減らしたいと。
だが、仮設住宅に入ると新しい情報が入手困難になる為に迷っている人達も多いとか。

大震災が残した現状Ⅺ
俺は聞いた、今我々にできる事は、求める事は何ですかと。
それは少しでも風評被害を防いで欲しい、多くのマスメディアを通して国民に伝えて欲しいと痛切に願っていた。
ストレス発散に家族で他県の温泉に行ったところ、
福島ナンバーの車に「福島帰れ!」と書かれていたり、傷つけられたり、
中には福島県民お断りの場所もあるという。この差別は許しがたい。
この4日間3ヵ所で救援物資約6トン、炊き出し約2000食。
そして福島産物約2トンをトラックに積み込んで帰路についた。
今俺達が何をするべきなのか、一日も早い復興を願うにあたり、
俺はこんな小さな人間だけど、これからもまだまだできる事はいっぱいあると認識した。
そして被災者の方々と共に頑張って行く誓いをたてた。
賛同してくれた大阪の仲間、山形の仲間、仙台の仲間、東京の仲間・・・
そして、温かい心のこもった沢山の物資を送ってくれた皆さんに感謝いたします。
SHOW YOUR HEART
川崎麻世
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僕らの今後の支援の形は、
ずっと同じやり方で良いというわけではありません。
現在までは物資を被災地に送ることを最優先させてきましたが、
これからは「魚より釣り竿を」という行動に移して行く時期に入ってきたと思います。
何か、物を与えることよりも、、「釣り竿」を用意し
自分たちの生活は自分たち自身でも組み立てていけるよう協力していく。
以前からずっと言っていることですが、
人は与えられ続けると、精神も心も駄目になっていきます。
ひとは創造や生産が出来なくなると
諦める気持ちや投げやりな気持ちがずっとつきまといます。
それでは真の復興とは言えません。
SHOW YOUR HEARTが応援している「ふんばろう東日本プロジェクト」の新たな試みも
その一つです。
被災者の方達に復興する上で必要な免許、資格を取って貰い
仕事を用意し、けっして立ち止まらない姿勢を取り戻して貰うこと。
僕らの課題です。
そして諸外国に対する動きも必要です。
日本の現状をより理解して貰い、
その国における日本の製品、産物の輸入に対する規制や
渡航に対する考え方も見直して貰う必要もあります。
㒒は一個人として出来ることと共に、
一人のアーティストとしてやれることの可能性を探しながら
諸外国に理解の輪を広げることをこの二ヶ月やってきました。
実際に産物の受け入れを再開してくれた国もあります。
それでもまだかなり規制、縛りがたくさんあります。
僕らには認識しなければならない現実があります。
僕らは震災という観点では被害者です。
ただ、地球汚染という観点では加害者なのです。
誰かのせいにする問題じゃない。
僕らが自分たちの生活を便利にしてきたこと、
それにもたれてきたこと、その便利さを当たり前だと思い、
この小さな地震大国に、異常な数の原発を容認してきたことも
自分たちの責任なのです。
誰のせいでもない。
今回の事故が起きてから東電に対するバッシングが際だっていますが
この現状を容認、黙認してきたのは、紛れもない僕ら日本人です。
これだけの情報社会にもかかわらず、
僕らは自分たちの本当に知らなければならないことを
学ばなければならないことを手に入れようとはしていなかった。
この数十年の僕たちが続けてきた、
「無関心の継続、関心の放置、当たり前にある生活感、災害や事故に対する危機感の薄れ」
これらは誰の責任なのか。
一概に国のせいにするのは間違っている。
危機感にしても、何かの必要性に対する対応も
その街、その都市に住む僕らの声があって意味を成すもの。
たとえ、国が何かの方針をとったところで僕らの関心が無ければ
他人事にしか思えない現状を僕らが作ってきたのだと思います。
僕らはこの豊かな国、日本に生まれ、育ってきた中で
多くの物を手にしてきた反面、
多くの大切な意識と心を失ってきました。
諸外国の近代的な文化を取り入れすぎるあまりに
本来、自分たちが護らなければならない大切な精神と文化を
無くしてきた事実がたくさんあります。
これらも僕らの責任です。
僕らはここから新たな日本を作るために
動いていかなければならない。
これは被災地だけの問題じゃない。
日本人である、日本に住む者達全員の問題です。
数十年掛かること。
それでも未来の子供達のため、
自分自身のためにやらなければならない。
「国を護る、国を創る」ってことはこういうことなのではないでしょうか?
僕らは今回の震災をきっかけに
多くの失った物を取り戻す機会を与えられたと思わなければ、
自分たちの失った物を取り戻していかなければ、
失った物が多すぎる。
多くの尊い命が失われました。
たくさんの思い出の地が一瞬に消えてしまいました。
これは日本人である、僕ら全員の問題なのです。
ふ〜〜、今回のブログはとても長くなりました。
前回から、今回のブログを書くまでに色んなことがありすぎて
正直、頭の中でまとまらない量になっていたので、
これでも随分と簡潔に頭の中を整理したわけです。
さて、最後に叫んでみるか〜〜〜。
SHOW YOUR HEAAAAAAAAAAAAAAAAART!!!!!!
自分の出来る小さなことから。
GACKT

SHOW YOUR HEART MACAO